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第0章 夏村さんは最凶です(3)

last update publish date: 2026-11-04 18:51:17

 ◇◇ 入学式当日 ◇◇

 決意も新たに、俺は鏡の前で頬を二、三発、軽く叩いた。

 痛みというより「音」でスイッチを入れる感じだ。

(よし。今日からだ)

 登校の準備はできている。制服も、鞄も、書類も、靴も。

 あとは母が部屋から戻ってくるのを待つだけ――のはずなのに、やけに落ち着かない。胸の奥がそわそわして、手持ち無沙汰で机の端を指でなぞってしまう。

 俺は、人生をリセットするためにここに来た。

 中学時代の“闇”を引きずらず、誰にも知られず、ただ静かに三年間を走り切る。

 目立たず、揉めず、勉強して、大学へ行く。

 そのための高校生活の始まりが、今日だ。

 母が戻ってくると、俺たちは一緒に家を出た。

 最寄りのバス停までは徒歩で数分。通学そのものは、たぶん不便じゃない。たぶん――。

 俺と母は、バスが混むのが嫌だった。できれば座りたい。

 だから少し早めに家を出て、『大久保浄水場』行きのバスに乗り込んだ。

 大久保浄水場といえば、荒川の水を飲み水として市内に供給する場所で、小学校の遠足で見学したことがある。巨大な設備と、消毒薬みたいな匂いだけが妙に記憶に残っている。

 そんなことを思い出すあたり、俺はやっぱり緊張していたのだろう。

 バスに乗ると、俺と母は別々の席に座った。

 時間が早いとはいえ、車内にはそれなりに人がいて、並んで座れる空席がない。

 俺は窓側の席に腰を下ろし、窓枠に頬杖をついて外を眺めた。

 十数分もすると、車窓の景色は都会から田園風景に変わっていく。建物の密度が薄くなり、空が広がり、畑が増える。荒川沿いの風のせいか、木々がどれも同じ方向に少しだけ傾いて見えた。

 ――俺は、たぶん車内の景色をちゃんと見ていなかった。

 緊張と興奮で、視界は外に向いているのに頭の中は別のことばかり考えていた。

 このバスに、同級生になる人間が何人乗っていたのか、まったく覚えていない。

 『大鳳高校前』で降りると、通学路は桜並木になっていた。

 花が散り終わり、緑色の葉桜に染まった枝が風に揺れている。春はちゃんと進んでいるのに、俺だけがその流れに置いていかれそうで、ほんの一瞬、胸がざわついた。

 校門をくぐり、校内の掲示板を見る。

 そこには、各クラスの担任名と所属生徒の氏名がずらりと書かれていた。

 一組、担任は渋谷先生。

 一組という響きだけで、なぜか「幸先がいい」と思ってしまう自分が単純で可笑しい。

 だが俺は、この高校では目立たずに過ごすと決めている。

 中学時代の、今の言葉でいえば『黒歴史』を持ち込まず、誰にも気づかれず、ただ静かに三年間を終える。

 そのために――必要以上の縁は持たない。広げない。

 母とは掲示板の前で別れた。

 母は体育館へ、俺は校舎へ向かう。

 玄関に近づいたとき、背後――掲示板のほうから、やけに気合いの入った声が聞こえた。

 振り返る。

 ――例のヤンキー集団だ。

 受験の日にも廊下を練り歩いていた、あの「ご一行様」。

 先頭にいるのは、あの女。

 この時点で、もちろん彼女が誰なのかは知らない。名前も、クラスも、何ひとつ。

「なつさん、チワっす! なつさん、俺と隣のクラスっすね!」

「おう! そうみたいだな、たけし! みんな、これからも面倒かけるが、よろしく!」

「承知!」

 声の圧がすごい。

 妙に体育会系のノリで、しかも統率が取れている。

 “怖い”というより、“近寄りがたい”と言ったほうが正確だった。

 自分のクラスを確認し終え、玄関に向かおうとしたヤンキーたちの先頭――その女が、ふと足を止め、もう一度掲示板を見返した。

(……一組か。楽しみだな。どんな奴になっていることやら)

 たぶん、そんなことを思ったのだろう。

 俺に向けての言葉じゃない。なのに、背筋に冷たいものが走った。

「なつさん、どうされました?」

「いや。もう一度自分のクラスを確認しただけだよ。俺のクラスはメンバーが少ないから、たけしのクラスに遊びに行くからな」

「お待ちしています!」

 俺は勘付かれないように、急いで下駄箱へ向かった。

 心臓が変に速い。余計な汗が手のひらに浮く。

 ――やっぱり、新しい校舎はいい。

 靴箱の木の匂いも、廊下の光も、全部が新鮮だった。

 中学の校舎は床板がボロボロで、隙間だらけだった。硬貨を落とせば最後、一巻の終わり。掃除の時間は、掃除をしているのにゴミが増えるような感覚さえあった。

 それに比べてここは、コンクリートの上にグリーンのシートが貼られていて、足音が軽い。

 掃除も楽そうだ。

 ……くだらない安心材料だけど、俺はそういう“小さな確信”が欲しかった。

(いよいよ、俺の人生リセットの高校生活が始まる)

 教室のドアを開ける。

「失礼しまーす」

 数人が返事をしてくれた。

 机の上には、名前を書いたカード状の紙。黒板には座席表が描かれ、机の図にそれぞれ名前が書かれている。

 俺の席は――廊下側の最後方。

 最高だと思った。

 廊下からの風が入る。人の視線が少ない。必要ならすぐ逃げられる。

 大地震のときに一番に外へ出られる――というのも、俺の中では結構重要だった。

 荷物を後方のロッカーに入れ、自分の席へ向かう。

 すると隣の席に、背の高い女子が立っていた。

 俺が軽く会釈すると、彼女は笑顔で声をかけてきた。

「高松和也くんだよね。私、隣の席の井上琴絵です。よろしく!」

「ええと……高松です。よろしくお願いします」

 身長はたぶん一七八センチくらい。

 ショートヘアで、笑顔が明るい。血色のいい肌と、スポーツで鍛えられた均整の取れた体つき。

 “強い”というより、“まっすぐ”な感じがした。

「高松君、中学時代、何部だったの? 日焼けしてる感じだから運動系かなって思って。私はバレーボール部」

(正解。やっぱりそっち系だ)

「俺はサッカー部です。弱小でしたけど」

 そこから会話は、彼女のペースで進んだ。

 言葉の間がうまい。質問が自然で、返答を拾って、ちゃんと広げてくる。

 気づけば俺は、笑って相槌を打ち、必要以上に喋っていた。

(……この子、頭いいんだろうな)

 会話のテンポが気持ちよくて、俺は少し安心してしまった。

 この高校でも、普通に話せる相手がいる。

 それだけで“世界が暗い”という思い込みが少しだけ薄れた。

 ――が、気づけば教室内はほぼ埋まっていた。

 俺は教室を見回して、固まった。

 マンガ『ビー・バップ・ハイスクール』みたいなヤンキー全盛期。

 まさにそれが現実になっている。

 クラスの三分の一近くがヤンキーだった。

 彼らは初日から、教室の後ろでたむろしている。

 しかも空気が、すでに“自分たちの場所”になっている。

(……結論。この高校、ヤンキー学校だ)

 晏菜が「大変だろうけど」と言った理由が、少しわかった気がした。

 とはいえ、教室の中には見えない境界線が引かれていた。

 ヤンキーと、そうでない層。

 互いが互いを見ないふりをして、距離を保っている。

 嫌な感じはする。

 でも、俺の中学にもヤンキーはいた。

 寄らず触らずでいけば、たぶん生き延びられる。

 しかも俺の席は出口近く。逃げやすい。

 ――そう思って、心を落ち着かせた、そのとき。

「チワっす!」

 ヤンキー数人が教室に入ってきた。

 さっき掲示板前にいた連中だ。

 彼らは自分の席を探して鞄を机に置き、そのまま後ろのヤンキー集団に合流する。

「たけしさん、うちのクラスで良かったっすワ」

「なつさんは隣のクラスだぞ……」

 “たけし”。

 さっき、あの女が呼んでいた名前だ。

 ――ってことは。

『俺のクラスはメンバーが少ないから、たけしのクラスに遊びに行くからな』

 その言葉の意味が、現実として落ちてくる。

 つまり――あの女が、これから頻繁に俺のクラスに出入りする可能性が高い。

 俺は、入学初日にして“余計な縁”の予感を抱えてしまったのだ。

 隣の席に井上さんがいて、これなら悪くないかもしれない――そう思いかけていた俺の高校生活に、早くも暗雲が差し込む。

 さて、入学式。

 音楽とともに一年生は体育館へ出席番号順に並んで入場した。

 体育館の前方に新入生、後方に在校生。

 在校生の前方には、普通の格好の生徒が並んでいる。

 だが、ヤンキーっぽい先輩方は後ろの方で自由を満喫していた。

(二年目にして、もう荒れてるのか……?)

 胸の奥に、冷たい現実感が落ちた。

 こうなってくると――

 こんな学校で青春ドラマみたいな経験を期待すること自体が無理だ。

 俺の目標は、早くも「勉強一筋」の学校生活に切り替わった。

 『友情』?

 『恋愛』?

 無理、無理。

 ……そう言い切りたいのに、わずかな望みがあった。

 井上さんの存在だ。

 中学時代、女子から声をかけてもらうことさえほとんどなかった俺にとって、彼女と普通に会話ができたことは、それだけで“救い”みたいに感じてしまった。

 それに、この大人数の中に、同じ中学の出身者は一人もいない。

 過去を知られることなく、人生をリセットできる。

 何もかも、順調だ。

 ……隣のクラスの、あの女のことを除けば。

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